不思議の国のアリス 第1回:作者と誕生の背景
このシリーズについて
このシリーズでは、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を、全13回に分けて詳しく読んでいきます。第1回(この記事)では作品の全体像と、作者や成立の背景を取り上げます。第2回から第13回までは、原作の全12章を1章ずつ、あらすじ、見どころ、言葉遊びや風刺の背景、そして小説を書く人にとっての学びという順に解説していきます。
『不思議の国のアリス』の原文(英語)は1865年に出版された作品で、著作権はすでに消滅しています。そのため、原文の引用が可能です。本シリーズでは、原文から一字一句そのまま引いた箇所を《》で囲み、日本語での説明や要約と区別できるようにしています。一方、日本語訳は訳者の著作物ですので、訳文の引用はしていません。あらすじや解説はすべて、筆者の言葉で書き直しています。なお、章の題名は翻訳によって異なるため、記事の中では内容が伝わる呼び名を使います。
ルイス・キャロルとは、どんな人物か
『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルは、筆名です。本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Charles Lutwidge Dodgson)といい、1832年にイングランド北西部の村で、牧師の家庭の子として生まれました。大家族の中で育ち、やがてオックスフォード大学のクライスト・チャーチ学寮で、数学の講師を務めるようになります。つまり、世界中で愛される幻想的な物語の作者は、本業では論理と数学を教える学者でした。
筆名の由来にも、彼らしい遊び心があります。「チャールズ・ラトウィッジ」という名をラテン語にして「カロルス・ルドヴィクス」とし、その順序を入れ替えて、英語読みにしたものが「ルイス・キャロル」だと説明されています。彼は吃音(どもり)に悩んでいたと伝えられ、人前で話すのは得意ではなかったようですが、子どもたちの前では、驚くほど自由に物語を語ったとされています。また、写真にも熱心で、当時まだ新しい技術だった写真撮影を趣味にしていました。数学、論理、言葉遊び、写真。こうした関心が、のちの作品に色濃く反映されています。
1862年7月4日のボート遊び
物語が生まれたきっかけとしてよく語られるのが、1862年7月4日のボート遊びです。この日、ドジソンは友人の聖職者ロビンソン・ダックワースとともに、クライスト・チャーチの学寮長の娘たち、つまりロリーナ、アリス、イーディスの三姉妹を連れて、オックスフォード近郊のテムズ川をボートで遡りました。次女のアリス・リデルは当時10歳でした。
退屈した少女たちにせがまれて、ドジソンは即興で物語を語り始めます。主人公の名前はアリス。ボートで聞き入っていたアリス・リデル本人は、あとで「その話を書いてほしい」と頼んだといいます。ドジソンは、その願いに応えて物語を書き留め、1864年には手書きの清書版『アリスの地下の冒険(Alice’s Adventures Under Ground)』を作り、アリスに贈りました。これがのちの『不思議の国のアリス』の原型です。原稿はいったん完成していましたが、友人たちの勧めもあり、出版に向けて加筆と改訂が行われました。たとえばチェシャ猫や、気まぐれなお茶会の場面などは、出版版で膨らまされた部分だとされています。
出版と挿絵、そして初版の回収
出版版は、1865年にロンドンのマクミラン社から刊行されました。挿絵を担当したのは、風刺雑誌『パンチ』で活躍していたジョン・テニエルです。今日、私たちが思い浮かべる、エプロンドレス姿のアリスや、チョッキを着た白うさぎのイメージは、テニエルの絵が土台になっています。
ただし、最初に刷られた版は、テニエルが印刷の質に満足しなかったため、回収されることになりました。刷り直された版が、改めて世に出ています。回収を免れた初期の版は、今ではきわめて数が少なく、古書の世界で珍重されていることはよく知られています。この逸話は、作者が装丁や挿絵の質にいかにこだわっていたかを示す一例としても、しばしば語られます。
全12章の見取り図
原作は全12章で構成されています。ごく簡単に流れを示しておきます。第1章では、アリスが白うさぎを追ってうさぎ穴に落ち、体の大きさを変える飲み物とお菓子に出会います。第2章では、巨大になって涙の池を作り、第3章では、池から上がった動物たちとコーカスレースをします。第4章では、白うさぎの家で巨大化して大騒ぎになり、第5章でイモムシと出会います。
第6章では公爵夫人の家とチェシャ猫、第7章では帽子屋と三月うさぎの狂ったお茶会が描かれます。第8章はハートの女王のクロッケー場、第9章はにせウミガメの身の上話、第10章はロブスターのカドリール、第11章はタルトを盗んだ犯人を裁く法廷、そして第12章でアリスが証言に立ち、夢から覚めます。後半の法廷の場面に向けて、前半で登場した人物や小道具が次々と集まってくる構成になっているので、この順番で読むと、物語の組み立ての巧みさが見えてきます。
この作品を読むための3つの視点
一つ目は、「夢の論理」です。アリスの冒険は、最後に夢だったと明かされます。夢の中では、場面が唐突に変わり、登場人物の言動が噛み合わないまま進みますが、本人にとっては、その状況がごく自然に感じられます。キャロルは、この「夢らしさ」を、物語の構造そのものとして使いました。
二つ目は、「ナンセンス」と言葉遊びです。同音異義語、慣用句の文字通りの解釈、数や論理のもじりなど、言葉の仕組みを使った遊びが随所にあります。三つ目は、「当時の教育や道徳へのパロディ」です。ヴィクトリア朝の子どもたちは、道徳的な内容の詩を暗唱させられていました。作中のアリスは、そうした詩を思い出そうとして、毎回おかしな形で間違えます。それらは、元の詩を知っていると、よりおかしく読めるものです。次回以降、これらの視点を使いながら、各章を読み進めていきます。
小説を書く人にとっての、この作品の魅力
この作品が、創作を志す人にとって興味深いのは、「ルール」の作り方です。登場する世界は、でたらめに見えて、実は一貫した「ルール」で動いています。たとえば、体の大きさは、飲み物や食べ物で変わります。法廷は、おかしな手続きで進みますが、その手続きの中では、人物たちは真剣です。ばかばかしい出来事を、本人たちが大真面目に受け止めること。そこにこそ、可笑しさが生まれます。
また、読者の代わりに驚き、考え、突っ込みを入れる主人公の存在も重要です。アリスは、おかしな世界に放り込まれても、自分なりの理屈で考え、礼儀正しく振る舞おうとします。この「常識を持った主人公」と「非常識な世界」の組み合わせが、物語の推進力になっています。次回は、物語の入り口にあたる第1章、うさぎ穴に落ちる場面を詳しく読みます。
参考文献
Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland, Macmillan, 1865(原文。Project Gutenberg: https://www.gutenberg.org/ebooks/11)
マーティン・ガードナー(注)、高山宏(訳)『詳注アリス 完全決定版』亜紀書房、2019年
Martin Gardner (ed.), The Annotated Alice: The Definitive Edition, W. W. Norton, 2000
Morton N. Cohen, Lewis Carroll: A Biography, Macmillan, 1995
ルイス・キャロル(作)、河合祥一郎(訳)『新訳 不思議の国のアリス』角川文庫、2010年