不思議の国のアリス 第6回:イモムシの助言
第5章のあらすじ
小さくなったアリスが森を歩いていくと、大きなキノコが生えているのに気づきます。キノコの上には、イモムシが座り、水ギセル(長い管のついたパイプ)を吸いながら、アリスをじっと眺めていました。このとき、アリスの背丈は約3インチ(約7.5センチ)で、イモムシも、ちょうど同じくらいの大きさです。しばらくの沈黙のあと、イモムシは、ものうげな声で、「おまえは誰だ?」と問いかけます。原文では、《Who are you?》という、短い一言です。
アリスは、少し恥ずかしそうに、「私、今のところ、自分でもよくわかりません。今朝起きたときは、自分が誰か分かっていたのですが、それから何度も変わってしまったと思うのです」と答えます。イモムシは、「どういう意味だ。説明してみろ」と、冷たく言い返します。アリスは、「説明できません。私は私ではないのですから」と、困り果てます。この会話は、第2章から続く「自分は誰なのか」という主題が、ここで最も直接的な形で現れる場面です。
噛み合わない会話
イモムシとアリスの会話は、噛み合いません。アリスは、「体の大きさが、こんなに何度も変わると、気持ちが悪いのです」と訴えますが、イモムシは、「そうは思わない」と、そっけなく返します。アリスが、「あなたも、いつかさなぎになって、それから蝶になったら、きっと変な気持ちになりますよ」と言うと、イモムシは、「全然」と答えます。
アリスにとって、変化は不安なものですが、イモムシにとって、変化は、生まれつき備わった自然な営みです。この対比が、二人の会話を、すれ違わせています。立場によって、同じ出来事の意味が、まったく違って見えるというテーマは、前章までのネズミと猫の関係とも通じています。イモムシは、いつも相手に質問を投げかけ、答えが返ってきても満足しません。この「問い詰める大人」のような態度は、学校の先生のようでもあり、子どもの目から見た大人の威圧感を、象徴しているようにも読めます。
パロディ詩「ウィリアム父さん」
イモムシは、アリスに、「『ウィリアム父さん、あなたはもう年をとりました』を暗唱してみろ」と命じます。アリスは、手を組んで暗唱を始めますが、詩は、言葉がまったく違うものになってしまいます。この詩は、ロバート・サウジーの教訓詩「老人の安らぎと、彼がそれを得た方法」のパロディです。サウジーの原詩は、若者が老人に、どうしてそんなに元気なのかと尋ね、老人が、若い頃から健康に気をつけてきたからだと答える、真面目な内容です。
アリスの暗唱は、若者が老人に、頭で逆立ちをして、そんな歳で平気なのかと尋ね、老人が「頭が空っぽだと分かったから大丈夫だ」と答えるという、ばかばかしい内容に変わっています。その後も、老人は、宙返りをし、ウナギを鼻の上でバランスさせ、骨とくちばしごと鵞鳥(がちょう)を食べてしまいます。立派な老人の教訓話のはずが、無責任で元気すぎる老人の曲芸大会になっているのです。詩を聞き終えたイモムシは、「間違っている」と言い、アリスも、「少し違っていたようです」と認めます。
キノコの両側と、大きさの調節
イモムシは、去り際に、アリスに、大きさを調節する方法を教えます。それは、「キノコの片側を食べれば背が高くなり、もう片側を食べれば背が低くなる」というものです。イモムシが這い去ったあと、アリスは、キノコの両側を見分けようとしますが、丸いキノコには、どれが片側で、どれが別の片側なのか、見分けがつきません。そこで、両手を伸ばして、片方ずつ、キノコの縁をちぎります。
アリスが、片方を口にすると、あごが足に当たるほど、体が縮みます。慌てて、もう片方を食べると、今度は、首がぐんぐん伸びて、森の木の上に頭が出てしまいます。アリスの首は、まるでヘビのように、長く伸びたのです。アリスは、森の木々の葉の上に頭を出して、「肩はどこへ行ったのかしら」と考えます。体の一部の大きさを、バラバラに操作するという仕掛けは、第1章の「飲む・食べる」に比べて、より精密で、より滑稽な形になっています。
鳩との対話
アリスが、木の上に頭を突き出していると、一羽の鳩が、飛んできて、激しく羽ばたきます。鳩は、卵を狙う蛇だと、アリスを、思い込んでしまいます。「蛇め!」と叫んで、アリスを追い払おうとします。アリスは、「私は蛇ではありません」と、否定しますが、鳩は、「じゃあ何だ」と問い詰めます。
アリスは、「小さな女の子です」と答えます。しかし、鳩は信じません。アリスは、「卵を食べたことはあります。でも、小さな女の子も、蛇と同じように卵を食べるのです」と、正直に認めます。すると、鳩は、「それなら、お前は蛇の一種だ」と、決めつけます。ここでも、問われているのは、「何をもって何者とするか」という、分類の問題です。アリスは、自分が何者であるかを、周囲から勝手に定義されてしまいます。この場面は、第5章を通して続いてきた、アイデンティティの揺らぎを、より外側から揺さぶる効果を持っています。
元の大きさに戻って、小さな家へ
キノコの両側を、少しずつかじりながら、アリスは、ようやく、元の大きさに戻ります。長い時間ぶりに、自分の本来の背丈になったアリスは、「やっと、ほっとした」と思います。そして、庭を目指すための計画の、最初の半分、つまり「元の大きさに戻ること」を達成して、満足します。
そのとき、アリスは、森の中に、高さ4フィート(約1.2メートル)ほどの、小さな家を見つけます。「こんな小さな家には、この大きさでは入れない」と考えて、またキノコを少しかじり、9インチ(約23センチ)ほどに縮んでから、家に近づいていきます。次の章は、この家での出来事が舞台です。
小説を書く人にとっての学び
イモムシとの会話は、対話劇の見本のように読めます。互いに、相手の言葉を理解しようとせず、自分の考えを押し通しています。しかし、読者は、二人のすれ違いを通じて、アリスの不安と、イモムシの超然とした性格の両方を、くっきりと感じ取ります。会話が噛み合わないことを、そのまま、人物像を描く手段にしているのです。
また、詩やパロディを、物語に組み込む方法も参考になります。元の詩を知っている読者には、ずれを笑う楽しみがあり、知らない読者にも、ナンセンスな面白さがあります。複数の読み方ができる場面は、読者の層を広げます。なお、この章に登場するイモムシは、のちの映画化で「アブソレム」という名が与えられましたが、これは映画の設定であり、原作にはありません。次回は、公爵夫人の家とチェシャ猫が登場する、第6章を読みます。
参考文献
Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland, Macmillan, 1865(原文。Project Gutenberg: https://www.gutenberg.org/ebooks/11)
マーティン・ガードナー(注)、高山宏(訳)『詳注アリス 完全決定版』亜紀書房、2019年
Martin Gardner (ed.), The Annotated Alice: The Definitive Edition, W. W. Norton, 2000
Morton N. Cohen, Lewis Carroll: A Biography, Macmillan, 1995
ルイス・キャロル(作)、河合祥一郎(訳)『新訳 不思議の国のアリス』角川文庫、2010年