『枕草子』第7回:定子の没落と書かれなかったもの
明るいだけの作品ではない
ここまで読んできた『枕草子』は、季節の美しさ、愛らしいもの、機知に富んだ会話といった、明るく華やかな世界でした。しかし、『枕草子』が書かれた時期の定子の周辺は、実際には大きな悲劇に見舞われていました。今回は、その歴史的な背景と、『枕草子』がそれをどう扱ったのかを考えます。
中関白家の栄華と急変
定子の父・藤原道隆は、関白として当時の政治の頂点にいました。その家系は「中関白家(なかのかんぱくけ)」と呼ばれ、娘の定子は、一条天皇の中宮として栄華を極めていました。清少納言が出仕した頃は、まさにこの家の絶頂期にあたります。
しかし、995年に道隆が病没すると、状況は急変します。後継をめぐる争いのなかで、道隆の弟の藤原道長が実権を握っていきます。さらに996年、定子の兄の伊周と弟の隆家が、花山法皇に関わる不祥事(長徳の変)を起こしたとして、地方に左遷される事件が起きました。定子はそのとき、衝撃のあまり自ら髪を切って出家したと伝えられています。
定子の復帰と、最期
出家した定子でしたが、一条天皇は彼女への愛情を変えず、後に宮中へ呼び戻します。この異例の復帰に対して、貴族社会には批判もありました。1000年には、道長の娘・彰子が中宮となり、一人の天皇に二人の后が並び立つ「一帝二后」という前例のない状況が生まれます。
同じ年の末、定子は第三子の出産に際して亡くなりました。24歳でした。清少納言は、この間も定子のそばに仕え続けたと考えられています。やがて宮仕えを退き、『枕草子』の筆も止まったと推測されます。
『枕草子』は、悲劇を書かなかった
ここで不思議なのは、『枕草子』のなかに、こうした没落や悲劇がほとんど直接には書かれていないことです。作品に描かれるのは、定子のサロンが華やかだった頃の思い出が中心で、定子の悲境や、中関白家の没落を嘆く言葉は、ごくわずかにしか見られません。
清少納言は、あえてそれらを書かなかったのだと、多くの研究者が考えています。どれほど辛い現実があったとしても、定子とそのサロンの輝きだけを書き残そうとした。山本淳子の研究などでは、これを『枕草子』の意図的な「たくらみ」として捉える見方が示されています。悲しみをあえて書かないことで、定子の美しい姿を永遠に記録しようとした、という解釈です。
「書かない」ことの意味
文章において、書かれていないことは、書かれたことと同じくらい大きな意味を持ちます。『枕草子』を読むとき、華やかな場面の背景に、読者が知っている歴史の悲劇を重ねると、明るい文章がかえって切なく響いてきます。笑い合う場面の裏にある、失われたものの大きさを感じ取ることができるからです。
一方で、『枕草子』の中には、定子の不遇な時期にも、清少納言が彼女を励まし、支えた様子をうかがわせる章段もあります。厳しい状況のなかで、あえて明るい思い出を書き残すことは、清少納言なりの主人への忠誠であり、愛情の表現だったと読むこともできます。
清少納言のその後
定子の死後の清少納言については、確かなことがほとんどわかっていません。再婚した藤原棟世の任地へ下ったとする説や、晩年は零落して寂しく暮らしたとする後世の伝承などがありますが、いずれも後の時代の記録にもとづくもので、真偽は定かではありません。
確かなのは、彼女が書き残した『枕草子』が、千年以上経った現在も読み継がれていることです。定子のサロンは消えても、そこで交わされた言葉や感性は、清少納言の筆によって保存されました。
現代の創作に活かすなら
物語を書くとき、悲しい出来事や辛い現実を直接描かず、その周辺の明るい場面を丁寧に描くことで、かえって悲しみを際立たせる、という手法があります。『枕草子』は、その古典的な実例といえます。何を描き、何を描かないかという選択が、作品全体の印象を決めるのです。
次回はいよいよ最終回です。『枕草子』全体を振り返り、『源氏物語』との違いや、現代に読み継がれる理由を考察します。
参考文献
石田穣二(訳注)『新版 枕草子 上・下』角川ソフィア文庫
角川書店(編)『枕草子 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』角川ソフィア文庫
国文学研究資料館「新日本古典籍総合データベース」: https://kotenseki.nijl.ac.jp/
山本淳子『枕草子のたくらみ——「春はあけぼの」に秘められた思い』朝日選書、2017年
山本淳子『源氏物語の時代——一条天皇と后たちのものがたり』朝日選書、2007年