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ノアの箱舟 第1回:物語の全体像と成立

このシリーズについて

このシリーズでは、旧約聖書『創世記』に収められた「ノアの箱舟」の物語を、全7回に分けて詳しく読んでいきます。第1回(この記事)では物語の全体像と、成立の背景を取り上げます。第2回から第7回までは、第6章の前半から第9章の終わりまでを場面ごとに区切り、あらすじ、見どころ、背景、そして小説を書く人にとっての学びという順に解説していきます。

原典はヘブライ語で書かれています。本シリーズで本文を一字一句そのまま引くときは、1611年に刊行された英語の欽定訳(King James Version)を使い、《》で囲んで日本語での説明と区別します。欽定訳は著作権の保護期間が終わっているためです。一方、現在広く読まれている日本語訳は訳者や出版社の著作物ですので、訳文の引用はしていません。あらすじや解説はすべて、筆者の言葉で書き直しています。また、本シリーズは信仰の内容の是非には立ち入らず、一つの物語としての組み立てや、後世への影響を中心に読んでいきます。

旧約聖書と『創世記』の成り立ち

旧約聖書は、ユダヤ教の聖典であり、キリスト教にも受け継がれた書物の集まりです。その最初の五つの書(『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』)は、ユダヤ教では「トーラー(律法)」と呼ばれ、伝統的にはモーセが書いたものとされてきました。

一方、近代の研究では、これらの書は一人の手で一度に書かれたものではなく、長い時間をかけて伝えられた複数の伝承や資料が、編集を重ねてまとめられたものだと考えられています。最終的な形に整えられたのは、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代から、その後の時代にかけてだとする見方が一般的です。ノアの物語に見られる語り口の揺れ(この記事の後半で取り上げます)も、こうした成り立ちと関係していると考えられています。

『創世記』の中のノアの物語

『創世記』は旧約聖書の最初の書で、前半の第1章から第11章は、天地の創造から人類が地上に広がるまでを描く、いわば「世界の始まりの物語」です。神による天地創造、エデンの園のアダムとエバ、兄カインが弟アベルを殺す事件と続き、第5章では、アダムから始まる系図が十代にわたって記されます。その十代目にあたるのがノアです。

ノアの名前には、生まれたときに父レメクが込めた願いが添えられています。第5章29節で、レメクは、呪われた大地で苦労して働く自分たちを、この子が慰めてくれるだろうと語ります。物語の始まる前から、ノアは「世界の重荷を軽くする存在」として予告されているわけです。洪水の物語は、この予告がどのような形で果たされるのかを描く物語でもあります。

第6〜9章の見取り図

ノアの物語は、第6章から第9章までの四つの章にまたがっています。ごく簡単に流れを示しておきます。第6章の前半では、地上に人が増えるとともに悪が広がり、神が人を造ったことを悔やんで、地上のものを消し去ろうと決めます。ただ一人、ノアだけが神の好意を得ていました。第6章の後半で、神はノアに箱舟の造り方を細かく指示し、ノアはそのとおりに造ります。

第7章では、ノアの家族と動物たちが箱舟に入り、四十日四十夜の雨とともに大洪水が起こって、地上の生き物が滅びます。第8章では、神がノアを心に留めて水が引き始め、ノアはカラスと鳩を放って地が乾いたかを確かめ、ついに箱舟を出ます。第9章では、神がノアたちを祝福し、二度と洪水で地を滅ぼさないという契約を結んで、そのしるしとして虹を示します。そして最後に、ぶどう畑を作ったノアが酔って眠り込み、息子たちとの間に起きた出来事が語られて、物語は幕を閉じます。

物語の主な登場人物

ノアの物語に登場する人物は、驚くほど少数です。中心にいるのはノアと、ノアに語りかける神(本文では、主という固有の名で呼ばれる箇所と、一般的に神と呼ばれる箇所があります)。そしてノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトです。第5章の終わりには、ノアが五百歳になったときにこの三人の息子が生まれたと記されています。

ノアの妻と、三人の息子の妻たちも箱舟に乗りますが、本文には名前が一度も出てきません。家族全員で八人という人数は、後の時代の文書にも受け継がれ、新約聖書の『ペテロの手紙一』でも「八人」が水を通って救われたと語られています。人間以外では、カラスと鳩が、物語の後半で重要な役割を果たします。登場人物を極端に絞り込んでいることも、この物語が神話のような普遍性を持つ理由の一つでしょう。

メソポタミアの洪水伝説との関係

神々が洪水で人類を滅ぼし、選ばれた一人が舟で生き延びるという筋は、聖書だけのものではありません。古代メソポタミアには、よく似た洪水の物語が複数伝わっています。中でも有名なのが『ギルガメシュ叙事詩』の第11の書板で、そこでは、英雄ギルガメシュに、ウトナピシュティムという人物が、かつて神の警告を受けて舟を造り、洪水を生き延びた体験を語ります。

この書板の内容が広く知られるようになったのは、1872年のことです。大英博物館の粘土板を研究していたジョージ・スミスが、そこに聖書とよく似た洪水の物語が刻まれていることに気づき、発表して大きな反響を呼びました。舟から鳥を放って陸地を探す場面や、洪水のあとに供え物をささげる場面など、ノアの物語と共通する要素は少なくありません。さらに古い『アトラハシス物語』にも洪水の話が残っています。共通点と違いをどう考えるかは、第4回・第5回で具体的に見ていきます。

一つの物語に重なる二つの声

ノアの物語を注意深く読むと、同じ内容が少しずつ違う形で二度語られているように見える箇所があります。たとえば、箱舟に入れる動物は、第6章では「すべての種類から雌雄一つがいずつ」とされていますが、第7章の初めでは「清い動物は七つがいずつ」とされています。洪水の期間も、「四十日」という数字と、「百五十日」という数字が出てきます。

こうした重なりについて、近代の聖書学では、もともと別々に伝えられていた二つの洪水の物語を、のちの編集者が一つに織り合わせたと説明する考え方が有力です。神の呼び名の違い(主という固有の名で呼ぶ箇所と、一般的に神と呼ぶ箇所)や、日付を細かく記す文体の違いなどが、その手がかりとされます。ただし、資料の分け方には今も議論があり、定説とまでは言えません。本シリーズでは、こうした学説にも触れながら、現在の形の物語がどのように読めるかを中心に見ていきます。

この物語を読むための3つの視点

一つ目は、「創造の巻き戻しと、やり直し」です。洪水は、『創世記』第1章で神が整えた世界を、水に覆われた始まりの状態へ戻す出来事として描かれ、洪水のあとには、第1章とよく似た祝福の言葉が繰り返されます。二つ目は、「神と人との関係の変化」です。洪水の前と後とで、神の人間に対する態度がどう変わったのかに注目すると、物語の意味が立体的に見えてきます。

三つ目は、「数字と日付」です。ノアの年齢、洪水の始まった月日、雨の降った日数、水が地を覆っていた日数、鳥を放つ間隔などが、細かく記されています。これらの数字は、物語に現実感を与えると同時に、前半と後半が対応する構成を作る役割も担っています。次回以降、これらの視点を使いながら、場面ごとに読み進めていきます。

小説を書く人にとっての、この物語の魅力

ノアの物語は、四つの章という短い分量の中に、世界の破滅と再生という、もっとも大きな出来事を収めています。それでいて、箱舟の寸法や、洪水の始まった日付、鳥を放つ間隔といった細部は驚くほど具体的です。壮大な出来事を、具体的な数字と手順で描くことで、物語に手触りのある現実感が生まれています。

また、主人公のノアは、物語のほとんどの間、一言も話しません。神の言葉を聞き、そのとおりに行動する人物として描かれ、彼の台詞が初めて出てくるのは、物語の最後になってからです。語らない主人公を、行動だけで描き切るという手法は、現代の小説にも応用できる大胆な選択です。次回は、洪水の原因が語られる第6章の前半を読みます。

参考文献

The Holy Bible, King James Version, 1611(英語訳。Project Gutenberg: https://www.gutenberg.org/ebooks/10)

『聖書 聖書協会共同訳』日本聖書協会、2018年

『聖書 新共同訳』日本聖書協会、1987年

関根正雄(訳)『旧約聖書 創世記』岩波文庫、1956年

Robert Alter, Genesis: Translation and Commentary, W. W. Norton, 1996

月本昭男(訳)『ギルガメシュ叙事詩』岩波書店、1996年

Andrew George (trans.), The Epic of Gilgamesh, Penguin Classics, 1999