ノアの箱舟 第3回:箱舟を造れという命令
第6章9〜22節のあらすじ
この段落は、ノアの紹介から始まります。欽定訳では、6章9節が《Noah was a just man and perfect in his generations, and Noah walked with God》と訳されています。ノアはその時代の中で正しく、非の打ちどころのない人で、神とともに歩んだ、というのです。ノアにはセム、ハム、ヤフェトという三人の息子がいました。
一方、地は神の前に堕落し、《the earth was filled with violence》、暴虐に満ちていました。神はノアに、すべての肉なるものを終わらせることにしたと告げ、箱舟を造るよう命じます。箱舟の材料、大きさ、構造が細かく指示され、神は洪水を起こして天の下の息あるものを滅ぼすと宣言します。そのうえで、ノアとは契約を立てると約束し、ノアの家族と、あらゆる生き物の雌雄一つがいずつを箱舟に入れ、すべての食べ物を蓄えるよう命じます。段落の最後は、ノアがすべて神の命じたとおりにした、という一文で結ばれます。
箱舟の設計図
神の指示は、驚くほど具体的です。欽定訳では、6章14節が《Make thee an ark of gopher wood》、つまり「ゴフェルの木で箱舟を造れ」と始まります。ゴフェルがどの木を指すのかは分かっておらず、糸杉などが候補に挙げられてきました。箱舟には部屋を設け、内側にも外側にも、防水のためのタールのようなものを塗るよう指示されます。
大きさは、長さ三百キュビト、幅五十キュビト、高さ三十キュビトです。キュビトは肘から指先までの長さを基にした単位で、一キュビトをおよそ45センチとすると、長さ約135メートル、幅約22メートル、高さ約13メートルになります。さらに、上部に明かり取りを設け、側面に戸口をつけ、内部は一階、二階、三階の三層にするよう命じられます。「箱舟」と訳される言葉は、帆もかじもない箱のような船を思わせるもので、自分で進むための船ではなく、ただ水に浮かんで中の命を守るための器だったことがうかがえます。
契約の予告と、動物たち
6章18節で、神はノアと「契約を立てる」と約束します。「契約」という言葉が、聖書の中で正式に登場するのは、ここが最初です。この約束は、洪水のあと、第9章で虹のしるしとともに果たされます。物語の早い段階で、結末に関わる重要な語をさりげなく置いているわけです。
動物については、6章19節で、あらゆる種類から雌雄一つがいずつを箱舟に連れて入るよう命じられます。欽定訳では《two of every sort shalt thou bring into the ark》です。鳥も、家畜も、地を這うものも、それぞれの種類から一つがいずつ。そして、人と動物が食べるためのあらゆる食べ物を集めて蓄えるよう指示されます。第1回で触れたように、次の第7章では「清い動物は七つがいずつ」という別の指示が出てきます。この違いは、二つの資料が組み合わされた跡だと考えられています。
黙って従うノア
神の長い指示に対して、ノアは何も答えません。疑問も、反論も、驚きも記されていません。段落の最後は、欽定訳で《Thus did Noah; according to all that God commanded him, so did he》、つまり「ノアはそのようにした。神が命じたすべてのとおりに、そのようにした」と結ばれています。同じことを二度繰り返す言い方で、ノアの従順さが強調されています。
ノアは、物語のほぼ最後まで、一言も話しません。後の時代の伝承や解釈の中には、ノアが箱舟を造りながら人々に悔い改めを呼びかけた、と語るものもありますが、『創世記』の本文には、そうした場面はありません。巨大な箱舟を造るには長い年月がかかったはずですが、その苦労や周囲の反応も描かれていません。本文が語るのは、命令と、その実行だけです。この徹底した省略が、かえってノアの人物像を強く印象づけています。
「箱舟」という言葉
日本語で「箱舟」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「テバー」と言います。この言葉は、旧約聖書の中で二つの場面にしか出てきません。一つはノアの箱舟、もう一つは『出エジプト記』第2章で、赤ん坊のモーセがナイル川に流されるときに入れられた籠です。モーセの籠も、アスファルトとピッチで水が入らないように塗られていました。
巨大な箱舟と、赤ん坊一人を入れる小さな籠。大きさはまったく違いますが、どちらも「自分では進めない入れ物に、命を託して水の上に浮かべる」という点で共通しています。そしてどちらの場合も、その中にいた命から、新しい時代が始まります。同じ一つの言葉が、聖書の中の二つの大きな「始まり」の場面をつないでいるのです。なお、日本語では「方舟」と書くこともあり、どちらも同じものを指します。
ウトナピシュティムの舟との比較
『ギルガメシュ叙事詩』のウトナピシュティムも、神の警告を受けて舟を造ります。ただし、その形はノアの箱舟とはかなり異なります。叙事詩によると、その舟は甲板が正方形で、側面の高さも甲板の一辺と同じだったとされ、立方体に近い形をしていました。さらに、六つの甲板で内部を七つの層に分けたと語られます。
ノアの箱舟は、長さが幅の六倍もある細長い形で、三層構造です。舟の形だけでなく、乗る人々にも違いがあります。ウトナピシュティムは、家族のほかに職人たちや、財産、さらに野の獣も乗せたとされます。一方、ノアの箱舟に乗るのは、家族八人と動物たちだけです。財産や職人を乗せないことで、聖書の物語は、救われる対象を「命そのもの」に絞り込んでいるとも読めます。
名前を持たない家族
ノアの妻と、三人の息子の妻たちは、物語の中で一度も名前を呼ばれず、言葉も発しません。後の時代のユダヤ教の伝承の中には、ノアの妻に名前を与えたものもありますが、『創世記』の本文は彼女たちについて何も語りません。
この空白は、後世の芸術家や作家たちの想像力を刺激してきました。中世イングランドの宗教劇には、箱舟に乗るのを嫌がるノアの妻を、ノアが説得する場面を喜劇として描いたものがあります。また近年の小説や映画でも、ノアの家族の視点から物語を語り直す試みがたびたびなされています。本文が語らない部分は、読者や後の作者が物語を引き継ぐための余白にもなっているのです。
小説を書く人にとっての学び
この場面から学べるのは、「具体的な数字と手順」が持つ力です。箱舟の寸法、材料、構造が示されることで、読者は頭の中に箱舟を組み立てることができます。突拍子もない出来事ほど、細部を具体的に描くことで説得力が増します。ファンタジーやSFで架空の乗り物や建物を出すときにも、寸法や材料を一つ二つ示すだけで、世界の手触りは大きく変わります。
もう一つは、台詞を持たない主人公の描き方です。ノアは内面を語りませんが、「命じられたとおりにした」という行動の積み重ねによって、信頼できる人物として読者の心に残ります。感情を説明せずに、行動の選び方で人物を描くこと。これは、現代の小説で人物を立体的にするうえでも有効な方法です。次回は、いよいよ洪水が始まる第7章を読みます。
参考文献
The Holy Bible, King James Version, 1611(英語訳。Project Gutenberg: https://www.gutenberg.org/ebooks/10)
『聖書 聖書協会共同訳』日本聖書協会、2018年
『聖書 新共同訳』日本聖書協会、1987年
関根正雄(訳)『旧約聖書 創世記』岩波文庫、1956年
Robert Alter, Genesis: Translation and Commentary, W. W. Norton, 1996
月本昭男(訳)『ギルガメシュ叙事詩』岩波書店、1996年
Andrew George (trans.), The Epic of Gilgamesh, Penguin Classics, 1999